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能率化の進むヒト牧場

塾始め低学年化…小6、中学で通塾率減少 (毎日新聞から引用)

 文部科学省は8日、07年度の「学校外での学習活動に関する調査」を発表した。小学生では塾に通い始める学年が早まり、習い事をする児童が減った。文科省は「保護者の公教育への不安や不信感が増していることも背景にある」と危機感を強めている。




 教養を身に着けるゆとりも与えられず、ただ資本家の皆様に美味しく召し上がっていただくためだけに、教育という名目の職業訓練を受けさせられ、学校という非人間的な監獄の中であらゆる自由を拘束されながら『おまえはただの卑しい奴隷として生まれついたのだ』と反復して刷り込み続けられる。
 こうして資本家のための労働力ファーム、このいわば『ヒト牧場』では、今日もまた生まれたばかりの人間の子供が、立派な賃金奴隷へと育てられている。そうして生まれた子供たちは、それぞれが奴隷としての自覚を身に着け、いつしか大人になった子供たちは、それぞれが自分に嵌められた足枷の大きさ自慢しあうようになる。
 その足枷の重さは、奴隷として生まれついたこの無産階級にとって、唯一のアイデンティティである。マスターから新たな拘束具が与えられればその要求全てを甘んじて受け入れ、奴隷は喜んでそれを身に着ける。
 自動車、家、クレジットカード。あらゆる拘束具をつけられ、もはやほとんど身動きも取れない拘束状態におかれながら、奴隷はただ満足する。自分に一切の考える自由が与えられていないことに、ようやく安堵するのだ。

 計画的に繁殖され、牧畜され、そして誰かの栄養になるためだけに今日も生き続ける全ての無産階級。私という人間も、そうした卑しき奴隷の一人には違いないが、私は奴隷としての教育が行き届かなかったイレギュラーな存在であるようだ。私はそうして拘束されることに悦びを感じることができない。もし私が、その与えられたその奴隷の立場を甘受できる個性を持っていたなら、どれだけ容易に生きられたことだろう。
 畜産における家畜たちは自らが、またその自らの子孫までもが計画的に種付けされ、必要に応じその乳や卵、またその命までを持って食肉を献上させられる。しかし、私という人間には家畜としての自覚が不十分であった。ただ食べられるためだけに生まれる子供なんて、私にはとても作れない。
 教育も生活も、我々に与えられる全ては、家畜に施す収穫のための投資、つまりは餌である。家畜に餌を与える上で、家畜にとっての食味の良し悪しなんてものを誰が省みるというのか? そんな餌が美味いの不味いの言ってみたところで、何の意味がある? 

 生まれながらに家畜の烙印を押され、タグによって管理される私という人間は、その絶命の瞬間までただこの屠殺場をのたうち回り、ほんのひとときにわたりブッチャーの手を多少煩わせた後、壮絶に死ぬだろう。家畜に生まれついた我々無産階級に、それ以上のどんな抵抗ができる? 他にどんな自由があるというのか?

脱稿

 二年前から告知していた新作が、ようやく書き上がりました。
 この一ヶ月はほとんど外出もせずモニタに向かいっぱなしで、体重が減るのに顔がむくんだり、ちょっと動いた拍子にギックリ背中(?)になったり、それはもう満身創痍です。
 その甲斐あって、良いものができたと自分では思っています。入選したら本屋で、落選でしたら同人誌で、どちらにしろ来年にはみなさんのお手元に届くでしょう。乞うご期待。

 八月から少し休んで、後半からは九月のサテライト3に向け再びDJを頑張ろうと思います。そしてそれが済んだ頃からまた、数本の書きかけになっている作品に手をつけたりしたいです。正直、あれもこれもしたいことがあって何から手をつけていいかわかりません。まだ大分時間は残っていると思うので、ゆっくり楽しみたいと思います。

流行の最果て

 一世を風靡した幾つもの流行。体系化されたジャンルというタグによって目安されながらも、常に境界なく多重的に変化し続けるその『流行』とはまるで、瞬間のスナップの連続によって紡がれるこの時間、それそのものによる、体系化困難なカルチャーというその全てを保全するためだけに作られた、ひとつのデータベース構造体。そしてリニアになぞり続けたその時代という走査線は、この21世紀を過ぎランダムアクセスデヴァイスへと進化。

 いや、何の話かっていえば、最近古い作品のDVD化やリメイクが相次いだり、それが新作なんかよりよっぽど売れていたりするのをみると、各時代ごとに投資された広報による認知度の財産を、その後何度にも渡って任意に呼び出し利用しようという、これは一種の合理化なんだなと。とんと流行に疎い自分のような者でも、過去のどこかを探れば何らかの興味に行き着くことはある。興味の細分化が進む中、そういう眠れる資源までをも合理的に利用しようということなんだろうと。

 20世紀にはフィフティーズとかエイティーズとか呼ぶことで、なんとなくカテゴリされる程度に、音楽やファッションなどの流行のまとまりがあったわけだけど、じゃあこの2000ズなんかはどうなんだろう? やってることといえば、それぞれが過去のジャンルの掘り起こしとその深化、先鋭化。そしてそれらの融合。悪く言えば、全てがコラージュなわけだ。それもそれで新しい部分もあるのだろうけど、そもそも純粋に新しいものが生まれる余地が、この時代に残ってるんだろうか? 途切れなく続いたこの流行のストリームは、辿り着いた情報化というこの澱みの時代を最果てに、その流れを途絶えるのだろうか? もしくはこの堤さえもいつか決壊される時がくるのだろうか?

預言

 そもそも私は、期限を切らない預言なんていういものが、ヒトの悪い詭弁の一種なのではないかと思えて仕方ありません。その預言が明日成就されるのか、千年後に成就されるのか、それを知る者はもはやこの時代には居ません。ただ我々には期限を切ることのない、預言だけが残されているのです。 
 それは二千年前に、中東からヨーロッパにかけて広い範囲で大流行したキリスト教という新興宗教に受け継がれ、いまも定義された道徳観により人々の行動を縛り付けています。
 終末の時は近い。主の再臨は近い。神の王国が実現される。
 二千年前にも、十字遠征軍の時代にも、そして二度の世界大戦を経験したこの時代にも、やはり同様の説法が説かれ続けていることを考えると、これが果たして信用に足るものであるのかは疑問視せざるを得ません。

 この時間という有限な線分において、ひとつの預言が成就されるか否か、というこの命題は、確かにひとつの観測される真理による証明が成り立ちそうに思われますが、その時空の線分を俯瞰する立場とはつまり、この我々の生きる宇宙に対して超次元的な実存を持った、形而上の存在にのみ与えられる立場であるといえます。よって真理というものは、その実存そのものが形而上の領域に在るということが出来るでしょう。

 娯楽の少ない古代において、バイブルという与えられた絶好のサブカルチャーを元に行われた、それは哲学という高等なレジャーであったのかもしれません。とはいえ、ルネッサンスもとうに過ぎたこの時代。あらゆるレジャーが飽和するこの時代にあって、我々はもうそろそろこの太古の遊びから脱却して、この預言という聖書的倫理の束縛から解き放たれ、もっとインタラスティングな遊びを探してもいい頃なのではないでしょうか?

 と、クリスチャンに言ったところで絶対理解してもらえないのでしょうね。それどころか、いきなり『悪魔だ!』って十字切られるのがせいぜいのところでしょう。難儀な人々だ。

ともに泣こう――Cry with us.



 韓国の著名なミュージシャンたちが、北の子供たちを救済するというコンセプトで、オムニバスアルバムを作ったようです。そのうちの表題ともなっている『Cry with us』というトラックが、動画共有サイトで話題になっています。噂をきいて自分も視聴しましたが、素直に良くできたクリップだと感じました。まだ日本語訳詞は出回っていないので、朝鮮語を知らない同胞たちのためにもと考え、稚拙ながら訳してみました。まだCDが届いていないので訳詞はリスニングによるのもですが、およそ正しいと思います。



Cry with us. (ともに泣こう)

誰を待つの まだ待つの
疲れた両目を瞑るとき 胸の慟哭も止むとき
ずっと待ち続けたその人は誰

渇いた目は覆われ この世界 置き去りに
きみの渇いた唇が 夢にまで呼んだ
その名はなに

ぼくらはひとつ その名はひとつ
知らない仲とは言わないはず
想いは私に伝わる 兄弟だろう ぼくら
ともに泣こう Cry with us.

きみの流す涙は 私の頬をつたい流れる
ぼくの流す涙は きみの心を濡らす
その昔から ぼくらはひとつだろう

ぼくらはひとつ その名はひとつ
知らない仲とは言わないはず
想いは伝わる 兄弟だろう ぼくら
ともに泣こう Cry with us.

疲れ果て倒れ 泣くことも出来ず
溜息だけを残し そっぽを向くとき
きみはぼくの腕を掴み ぼくら共に歩く
ともに目指す明日のために

ぼくらはひとつ その名はひとつ
知らない仲とは言わないはず
想いは伝わる 兄弟だろう ぼくら
掴んだ手 もう離さない 誰が何と言おうと

初めからぼくらはひとつ
ともに歩もう Cry with us.




 この曲とは別に、南北の民が共有する、統一を願う古典的な曲があります。
 その歌いだしはこうです。『我らの願いは統一。夢にも願いは統一』

「おまえらがバカ面下げてこの歌を歌っているその最中にも、兄弟たちは次々に飢えて死んでゆき、妹たちは二束三文で国境の街へと売られてゆく! 俺たちはもう十分待ったんだ! 待ち尽くした!」

 シュリという映画の後半で、祖国の武力統一のために、韓国でのテロリズムに及ばんとするラジカルな朝鮮人民軍兵士が、上記の内容を叫びながら激昂するシーンがあります。そこには、きれいごとだけで解決することのできない、逼迫した状況があります。彼の言い分に一定の理があるとしても、それでも我々は、あくまでその願いを叫び続けなければ、願いが成就されることはありません。
 もう我々は十分に待ちました。祖国統一は、もう成就されたっていいはずです。植えつけられたそのイデオロギーは、冷戦中における東西のプロパガンダによって押し付けられたもの。我々には、憎しみあう理由なんて最初からないのですから。

 大人たちの身勝手な大儀やイデオロギーに振り回され翻弄され、苦しめられ続けるのは、いつだって弱い人々であり、その最たるは子供たちです。幼少の頃から私もまた、南朝鮮はアメリカに蹂躙された植民地であり、南の当局こそが当面の敵であると教えられ育てられました。
 けど、もはや北も南も関係ありません。さらにいうと、あらゆる国家や民族さえも無意味です。民族分断の原因を生み出したアメリカ、その国の言葉でリリックの一部を歌うことにさえ自分は目を瞑りましょう。あらゆる遺恨も、苦しめられた祖先たちの憎しみも、全て忘れたって構いません。文明が歴史を綴るのは、それをもって憎みあうためではなく、そこから学び協調していくためなのです。だからもう、この時代に生まれた私たちだけは、仲良くしましょう。

 そこに困っている人がいて、助けたい気持ちがある。そうした愛の衝動にこそ、社会を形成する本来の意義があります。そうしたすべての人々にとって共有できる、助け合いたいと願う気持ち、そのアガペ、人類愛とも呼べる欲求を満たすためにこそ我々は、この社会という一種の契約を成立させたのです。社会という容れ物は、そこに収まるすべての人の欲求を、この善意の循環を阻害するものであってはなりません。
 狭量なナショナリズムや、大仰ぶった大儀なんてもう必要ありません。ただ目の前の困っている人のために、この時代に生まれた私たちは、自分がしたいと思ったことをしていいんです。
 歴史を知るからこそ、その悲しみを知るからこそ、私たちが紡いでゆく続きの歴史は、決して悲しいものにはしたくないから。

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